あなたも世界の一員として
開発途上国に大きな変化を起こせます

日本人としての使命

日本は戦後、1956年の国際連合加入で正式に国際社会への復帰を果たしました。

高度経済成長を経て経済大国へと発展をしましたが、国際社会の一員として、発展途上国、とりわけ身近な存在であるアジアの各国への援助・ボランティアは私たちが祖先から受け継いだ大事な責務だと考えています。

国連経済社会理事会の一員であるP.R.I.D.Eの日本オフィスである
太平洋地域発展及び教育組織も、学校の設立やのための募金活動など発展途上国への支援を行っています。

Sri Lanka

スリランカの国旗

スリランカへの支援

Support for Sri Lanka

スリランカの子供たち

スリランカは日本から西に約6300km、インド洋にある美しい島国です。ある世代には朝のニュース番組「ズームイン!朝」の「ワンポイント英会話に出演していたウィッキーさんの出身国」と聞けば、また別の世代は小学校の国語の教科書で「いっぽんの鉛筆のむこうに(作・谷川俊太郎)」という物語の「ポディマハッタヤさんが出てくる、鉛筆の芯の原料を作っている国」と聞けばピンとくるかもしれません。

その一方で、日本とスリランカのつながりは1921年に昭和天皇が皇太子時代に訪れたことから始まります。当時はイギリス領セイロン(スリランカの旧名)でした。

第二次世界大戦後、イギリスなどに植民地支配されていた多くの国が独立したように、1948年セイロンも独立しました。

1951年サンフランシスコ講和会議では敗戦国となっていた日本に対して「アジア各国への賠償」「米英中ソの4カ国で領土を分割統治」「主権の制限」などの提案が行われました。

その中でセイロン代表として会議に出席したジャヤワルダナ蔵相は「悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」と仏陀の言葉を引用し、日本への寛大な処置を検討するように各国に訴えました。

J.R.Jayewardene

ジャヤワルダナ氏の気持ちが響いたのか、多くの国は賠償を放棄し、分割統治案も無くなり、日本は主権を回復しました。その後、セイロンは1955年に国連に加盟し国際社会の一員として認められ、日本も1956年に国連に加盟して国際社会への復帰を果たしました。

1972年にはセイロンからスリランカへと国名が変わり、ジャヤワルダナ氏も1978年に第2代大統領に就任しました。スリランカの首都は1984年に旧首都コロンボの一角を「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」と命名して遷都しました。「ジャヤワルダナ」とは「勝利をもたらす」という意味もあるといい、ジャヤワルダナ氏自身の名前も絡めて名付けられたといわれています。

ジャヤワルダナ氏の日本への思いは強く、1989年1月2日にスリランカ大統領の任期を終えましたが、その5日後の1月7日に日本では昭和天皇が崩御。2月24日に行われた大喪の礼(国葬)では多くの国が現役の国家元首が参列する中、スリランカはジャヤワルダナ氏本人の強い希望により、新大統領ではなくてジャヤワルダナ氏が参列しました。

ジャヤワルダナ氏はその後も1991年に来日した際には広島を訪問し、平和記念資料館を見学しました。1996年に亡くなった際には「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言を残し、角膜ドナーとして左目の角膜は長野県在住の女性に移植されたと言います。

これらの事からもスリランカと日本の関係は深い物であることが分かります。しかし、日本ではスリランカやジャヤワルダナ氏については詳しく知られていない現実もありましす。また、スリランカ自体も1983年から2009年まで26年間も内戦が続き、経済成長は停滞し、多くの戦争孤児を生み出してしまいました。

私たち太平洋地域発展及び教育組織はジャヤワルダナ氏の日本への行いに深く感謝し、今度は私たちがスリランカに恩返しをさせていただく番だと考えています。多くの戦争孤児や貧困層の子供たちは学校に通えないことで満足のいく教育を受けられず、不安の中を生きています。教育やインフラの整備などスリランカの未来につながる支援を実現したいと考えています。

Cambodia

カンボジアの子供たち
カンボジアの国旗

カンボジアの支援

Support for Cambodia

カンボジアは日本から西に約4000kmのインドシナ半島に位置し、ラオス、タイ、ベトナムと国境を接しています。12世紀に建設されたアンコールワットは仏教の寺院として特に有名で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。年間100万人以上が訪れる観光地となっています。

カンボジアもまた、第二次世界大戦の開戦当時はフランス領となっており、1940年にフランスがナチスドイツに降伏した後、隣国であるタイから侵攻を受けました。日本の仲介により停戦しましたがその後は日本軍がカンボジアを占拠し、1945年の大戦末期にはカンボジアは独立を宣言しましたが主権を回復したフランスが再び保護国化しました。その後、1953年にようやく完全独立を果たしました。

1955年には国連加盟も果たし、穏やかではありますが順調に経済発展を遂げている中、1965年に隣国ベトナムにてベトナム戦争が勃発しました。抗議の意も込めてアメリカ合衆国との国交を断絶するなど、国際社会に対して戦争反対を訴えかけましたが、同時に国内の情勢も不安定になりました。

1970年には親米派によるクーデターが勃発し、内戦状態になりました。1975年のベトナム戦争がアメリカの敗北で終わったのと合わせるように、カンボジアの内戦も反米派のポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を握りました。

Les Khmers rouges

ポル・ポトは強権的な独裁政治を行い、1975年から1979年までのわずか4年間で病死・餓死・処刑などで170万人近い死者を出したと言われています。1979年に反ポル・ポト派がベトナム軍の援助を受けて首都プノンペンを制圧。ポル・ポトは追放されました。

その後はベトナムの支援を受けていましたが1991年まで、1970年のクーデターから数えると実質20年間の内戦状態でした。1992年には暫定政権が樹立され、1993年には国連の監視のもとで普通選挙が行われ、新憲法が施行されるなど、ようやく自由な民主主義を確立する事ができました。しかし、長い内戦とクメール・ルージュの暴虐などは現代でもカンボジアでは尾をひきずっています。

日本もカンボジアとはポル・ポト政権が成立した1975年から長い間国交が途絶えていましたが、1992年に国交を再開しました。その後、日本からカンボジアへの政府開発援助(ODA)も開始し、日本はカンボジアにとって最大の開発援助国となっています。しかし、政府間だけでなく民間交流による支援も重要だと私たちは考えています

国連の分析によると、カンボジア国民の過半数は貧困層に分類されているといいます。特に農村部は満足に電気も供給されておらず、一生懸命、濁った水をろ過して飲む生活を送っているようです。太陽光発電などのクリーンエネルギーを利用し、蒸留装置を普及させて安全な水が飲める環境を整えることで、カンボジアの今後の発展を太平洋地域発展及び教育組織が支えられると考えています。

Hatred ceases not by hatred,
But by love

−J.R.Jayewardene

憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む。 −ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ

私たちの目指す目標

スリランカ支援計画

 
  1. 自給、自立の為の職業専門学校の開校を目指す
  2. 日本の技術や教育を基に農業、畜産、漁業、自然環境保全の礎を築く
  3. 専門学校を作ることにより、専門的な教育、技術修得が可能となる
  4. 雇用、産業等の発展につくす
  5. 産物で輸出による外貨獲得を可能にする

カンボジア支援計画

 
  1. 川や池の水を飲料水にする蒸留装置の普及
  2. 無電化の村に太陽光発電所を作り、LED電気や携帯電話を所有できるように
  3. ゴミ収集車、トラクターなどを提供してゴミ問題、労働問題の解決
  4. 孤児院の建設と運営
  5. こども食堂の運営をし、安定した食を摂れるように

上記の問題解決に向けて関心を持ち、
一緒に行動してくださる方を求めています。